【八王子市】次の世代にも伝えたい戦争の悲劇がたくさんあります。8月5日は「いのはなトンネル慰霊の日」。
いのはな(湯の花)トンネル列車銃撃事件(1945年8月5日)
第二次世界大戦、終戦間近の昭和20年8月5日、高尾山からも近い八王子市裏高尾町(旧東京都南多摩郡浅川町)で一般人の乗った列車がアメリカ軍の攻撃によって被害を受けた事件を知っていますか?
太平洋戦争末期の1945(昭和20)年8月5日、この地で米戦闘機群によるわが国で最大規模の旅客列車 銃撃空襲がおきました。
8月2日の八王子空襲で中央本線が不通になった後、3日ぶりに新宿発長野行き419列車が浅川駅(現高尾駅)を出発し湯の花(猪の鼻)トンネルにさしかかった時、硫黄島から飛来したP5ムスタングの銃撃を受けました。この銃撃により警視庁の調べで52名が死亡(実際は60名以上)、133名が重軽傷を負いました。
5周忌を前にした1950(昭和25)年、地元浅川町青年団上長房分団が供養塔を建立しました。
いのはなトンネル列車銃撃遭難者慰霊の会(1984年結成)では、1992(平成4)年に慰霊の碑を、2017(平成29)年7月には供養塔・慰霊の碑入口を示す石碑を建てました。
慰霊の碑に書いてある文言は以下のとおりです。
終戦間近の昭和二十年(一九四五)八月五日 真夏の太陽が照りつける午後十二時二十分頃 満員の新宿発長野行き四一九列車が いのはなトンネル東側入口に差しかかったとき米軍戦闘機P51二機または三機の銃撃を受け 五十二名以上の方々が死没し 百三十三名の方々が重軽傷を負いました この空襲は日本最大の列車銃撃といわれています
私どもは この戦争の惨禍を決して忘れることができません
ここに 確認された犠牲者のお名前を書きとどめ ご遺族とともに心からご冥福をお祈り申し上げ 現在の平和の日々をかみしめ 戦争を知らない世代へこのことを語り伝えます
【裏】
地元に住む人々は 尊い犠牲者のお名前も人数も知ることなく 供養塔の前に手を合わせご冥福をお祈りしていました
昭和五十六年から八王子市教育委員会が八王子の空襲の調査を行い その後あらゆる手だてを尽くした結果 この事件の犠牲者は六十名以上と推定いたしました
そのうち 四十名のお名前と遺族が判った昭和五十九年 遺族関係者、地元の有志により七月二十一日に「いのはなトンネル列車銃撃遭難者慰霊の会」が発足いたしました
会では この年の八月五日を「供養の日」に定め 毎年供養の集いを行い現在に至っています
供養塔は はじめ唐沢踏切の北側にありましたが 地主のご好意で南側の土地を無償で提供していただき 昭和六十一年七月二十八日現在地に安置されました
かねてから 会では蓄積した浄財で亡くなった方々のお名前を刻んだ慰霊の碑の建立を計画していたところ 平成四年三月 東京八王子南ロータリークラブからも協力の申し出があり ここに念願でありました慰霊の碑が完成いたしました
平成四年六月十日 いのはなトンネル列車銃撃遭難者慰霊の会
この銃撃事件が起こったいのはなトンネルは、春にはたくさんの花見客で賑わう高尾梅郷にあります。
日本での戦争は77年前に終わりました。戦争を体験した方は77歳以上です。もし身近にご高齢の方がいらっしゃったら、お話を聞いてみて下さい。本や資料にはない貴重なお話が聞けるかもしれません。
いのはなトンネル列車銃撃事件のことは八王子の出版社、揺籃社(ようらんしゃ)から刊行されている「中央本線419列車―いのはなトンネル列車銃撃空襲の悲劇(揺籃社ブックレット)」
「ガイドブック八王子の戦跡」などにも詳しく書かれています。
いのはなトンネルはここ↓