【八王子市】八王子を発展させた桑の木、ただいま市内各所でたわわにスーパーフードと呼ばれる実を付けております。
八王子市内で今年も桑の実がたわわに実っています。
小さな頃学校帰りに桑の実を食べて、口と指先を紫に染めて親にバレてしまった思い出はありませんか?
最近は桑の実よりもマルベリー(Mulberry)と呼ばれることも多く、美味しくおしゃれで健康にも良いスーパーフードとして、お茶にされる桑の葉と共に人気があります。
そんな桑の木は、八王子織物のためのお蚕さんを飼うには必須の木です。
下の地図記号、小学校で習って覚えている方も多いかもしれませんが、この桑畑(くわばたけ)の記号は、桑(くわ)を栽培している土地をあらわしています。桑の木を横から見た形を記号にしたそうです。以前は八王子市内のあちこちがこの桑畑の地図記号で覆われていました。
特別に桑の木が地図の記号にもなるように、日本では、かつて養蚕が盛んだったこともあり、各地に桑畑の名残があります。
しかしながら、日本の繭生産量は、今から約80年前1930年(昭和5年)の40万トンをピークに減少し、昭和40年代に持ち直しの傾向が見られたものの、2016年(平成28年)には約130トンまで落ち込んでしまいました。
2013(平成23)年には「桑畑」の地図記号が地図から削除されました。
農林水産省による繭生産統計調査については、平成16年調査をもって調査を廃止しました。
八王子は、古くから養蚕が盛んな地域として知られ、江戸時代中期ごろから生糸や絹織物が盛んに商われていました。
八王子が桑都(そうと)と呼ばれるようになった由縁は、西行が詠んだという短歌「浅川を渡れば 富士の雪白く 桑の都に青嵐吹く」にあります。
この歌は、江戸時代後期の随筆に記録されており、このころ栄えてきた八王子宿の織物市のにぎわいを背景に「桑都」と言い習わされてきました。日本で「桑都」と称されるのは八王子だけです。
江戸時代の八王子は、宿が整備され、市場が立ち、周辺の村々からの繭や生糸、織物の集散地として栄えました。明治時代に入ってからは、萩原彦七製糸場などの大規模な製糸工場が建てられ、大正時代になると手機(てばた)から力織機(りきしょっき)へと電化していきました。第一次世界大戦(大正3年)ごろの日本経済は、かつてない好景気となりました。大正時代の八王子の産業の中心は織物業でしたが、甲州街道沿いには商業も発展しました。
織物業の躍進に支えられ、大正6年(1917年)に、八王子は東京府下で2番目に市制を施行しました。その後、第二次世界大戦による被害で、織物の生産は大幅に落ち込みましたが、生産者の努力により回復し、戦後の一時期は「ガチャ万」(「ガチャ」っと織れば「万」と儲かる)と呼ばれるまでになりました。その後、着物の生地だけでなく、ネクタイ・ニット・マフラー地など種類を増やし、現在は世界に向けてテキスタイルを発信し、「多摩織」の技術は職人の手技によって継承されています。
そんな八王子の歴史を見てきた桑の実は生でもおいしく食べられますが、あまり日持ちしません。そのため、ジャムやジュース、シロップ、お酒などの加工品として販売されていることが多いです。
ちなみに、桑の実を乾燥させたものは桑椹(そうじん)とよばれ、生薬として使用されるそうです。
すっきりとした甘酸っぱ香りがあることから、香水やお香などに用いられることもあるとのこと。
この季節にしか味わえない八王子の木の実「桑の実」を味わってみてください。
公道に落ちている実は、事実上、地方自治体が所有権を放棄しているということで拾っても問題がないとのこと。(枝に付いている実は管理者に所有権があります)
桑の実をみつけたら、まず木の管理者に採っても良いか問い合わせてみてください。
写真の桑の木が植えてある八王子市役所はここ↓